ながいひとりごと

先週26歳になった。なりたい自分にやっと辿り着いてから迎えた初めての誕生日で、ああやっと本当に自分が生まれたなと思った。同時にあまり自分には時間が残されていないようにも思った。どうも私は長く生きてけないような気がしている。今日も著名なアーティストが若くして亡くなったニュースが世間を賑わせている。

 

26歳という年齢は、なんだか当たり前に人間の大人だ。ある程度の社会的基盤と体力と計画力があって、自立していて、自我があって、なろうと思えば何にでもなれるし何でもできる。
当たり前、という言葉は人によって揺らぎを含むけど、私にとっての「当たり前の大人」がそれで、私はずっとその当たり前の大人になりたかった。同じくらいの歳で活躍している人、世間からも認められる何かになっている人もたくさんいるし、私の母は私の年齢の頃にはもう「母」だった。私は特別な何かになれたわけではないけれど、それでも自分の中のなりたかったものになれた。私は当たり前の人間になりたかった。
順風満帆な生き方ではなかったけど、とんでもない苦労人かと言われれば全然そんなことはない。ありきたりなちょっとした苦労をしただけだ。ちょっとした苦労は主観として少し長いと感じられるだけの間私を苦しめたけど、その越えられないと思った夜も自分の力になった。
過去の後悔、自分の中に答えがない問題、今自分がいる環境への不満に対して時間と体力を使って負の感情に振り回されるのをやめること、負の感情を抱くことは悪いことではない、けど少しずつ飼い慣らすこと。自分が近い将来どうなりたいかを冷静に効率的に考えて、どの環境に身を投げる努力をするか考えること。好きという感情に嘘をつかないこと。これは私の宗教観のようなものだけど、出口がないように感じられたあの暗い夜がもたらした答えのかたちかなと思っている。
ちょっとした苦労の内訳には心身症をやったとか不眠症をやったとかも含まれていて、今もそこそこ医者にかかるし早死にスターターキットを網羅しているような生活だし、やっぱりあまり長くは生きてられないんじゃないかなあと思う。睡眠も食事もあまり好きじゃない。そんなところも含めて「当たり前に生きている」とするのは甘えだろうか。人生の自由時間に到達した今、残された時間が短いとするならばやりたいことは自分の出来る範囲でなるべく全部やりたいと思う。見たい映画を見るとか、本を読むとか、自分でもいいものが作れたなと思う何かをかたちに残すとか、旅行に行くとか。そういうものをひとつずつこなして、生き永らえているうちにまたひとつずつ増えて、それを繰り返していくのも当たり前の大人なのかなとか考えたりする。
幸せは主観で測るものだと考えるようになった。今私はすごく幸せだけど、ある人から見たら私の生活はとても耐えられたものじゃないかもしれないし、「当たり前の生活」と言っているお前のそれはとんでもなく幸せじゃないか、と思う人もいるかもしれない。でも他の人が私の生き方をどう捉えるとしても、幸せかどうか測るのは結局自分だし、だったら幸せだと思い込んでそう言葉にして生きた方がいいかなと思う。言霊の力は強い。これも宗教観のひとつ。
 
今、自分が世界で1番絶望の底にいると感じている人、今いる場所が自分の場所ではないと思う人、生きるのが下手だなあと自分を評価している人、どうか負の感情に振り回されずに、冷静に自分が何になれるのか、何になりたいのかを見極めて、それに向かって少しだけ踏ん張ってみてください。
今幸せな人は、どうかその幸せが長続きしますように。幸せを長く続けて、その先のさらになりたいものへ進む努力を続けられますように。
 
皆さんがなりたい自分になれますように。
 
歳を取ると説教臭くなるのが人間なのでどうか許してね。私も頑張ります。先週お祝いして下さった皆さん、本当にありがとうございました。今年もよろしくお願いします。
 
おわり。