ゲームセンターにまつわる創作短編集「Home.」収録の小説です。こちらはサンプルページなので、おはなしの半分ほどを載せています。
音楽ゲーム、田舎町のゲームコーナー、「作る側」になれた人となれなかった人。
男子高校生千春とOL「てんし」を中心に綴る、少しだけ切ない恋愛小説です。
この町にあるもの。
山、畑、住宅街。以上。
電車で片道約二時間の大都会東京へ行く以外に、俺たちに選べる娯楽はおおよそ三択。
この町の青少年たちの唯一の社交場である大型ショッピングモール「マルオカ」を冷やかしに行くか、成人しているなら無駄にたくさんあるパチンコ屋に行くか、恋愛をするか。以上だ。
そんな町で暮らす健全な青少年である俺、七軒千春の世界のすべては、冴えない両親に生意気な弟、小学校の頃から顔ぶれの変わらないバカ達が集まる高校、マルオカの生鮮食品売り場でのレジ打ちバイト、そしてバイト終わりに立ち寄るマルオカ二階のゲームコーナーで憂さ晴らしにプレーするアーケードゲーム、今のところたったこれだけで構成されている。
これが、今の俺の世界のすべて。
他には何もない。
キラキラした青春も、将来の夢も、心躍るような事件も、ここには何もない。
大人になったら、多分この町を出る。
大人になるということの定義も、この町を出てどこに行って何をしたいのかも、ひとつも分かることはないけれど、とにかくこの小さくてつまらない町から早く出ていきたい。毎日退屈な授業中に繰り返し同じことを考える。乱暴に言えば、「田舎はクソだ」ということを毎日ぐるぐると考えているのだ。
そんなクソみたいな田舎町でのクソみたいな毎日だけど、ひとつだけマシなものがある。
この町で唯一の大型ショッピングモールであるマルオカ二階のゲームコーナー、そこはこの町で唯一アーケードゲームが置いてある貴重な場所という意味でもある。この寂れた町にはゲームセンターなんて存在しない。明らかにファミリー層向けである子供だましみたいなしがないマルオカのゲームコーナーのことを、この町の大抵の人間は「マルオカのゲーセン」と呼んでいた。
オモチャみたいなメダルゲームやクレーンゲームのかたまりを越えた先、フロアの一番奥の薄暗い一角には、格闘ゲームや弾幕ゲーム、音楽ゲームやスロットなどの少しコアで対象年齢の高いアーケードゲームがまとめて追いやられている。俺みたいに地味で冴えない奴らの溜まり場になっているそこにはいつも、「地味」という形容詞とはまるで真逆の、パステルピンクでふわふわでへらへらとした女がいる。
この女が今のところ、俺の世界で唯一の「マシ」だ。
彼女は、自らを「てんし」と名乗っている。
***
「だからさ~、そこは十六分の片手同時押しで処理すればいいんだよ~」
「いや、頭で分かってても実際出来るかどうかは別だから」
今日も俺とてんしは、マルオカのゲーセンの片隅で「専門的すぎる」ゲーム攻略話に花を咲かせる。最近の話題は専ら新しく入荷したピアノ型音楽体感ゲーム「キーボニクス:ゼロ」の高難易度楽曲についてだ。この田舎に最新ゲームがやって来るというのは我々にとってはちょっとした事件だった。
てんしとは、いわゆるゲーム仲間というやつだと思う。
素直に「友達」という言葉を使うのがなんとなく憚られるのは、てんしが俺より七つも歳上の社会人で、このゲームコーナー以外で会うこともほぼ無くて(最も、たまに俺の担当するレジににやにやしながらわざと並んできて、そのくせ素知らぬ顔で缶チューハイを買って去って行くとか、いかんせん狭い町なので休日にバスに乗っている時なんかにたまたま歩いてるところを見かけることがあるとか、そういうことが無いわけでもない)そして何より俺は、このてんしという人のことを何も知らないのだ。
「てんし」というのはゲーム用のユーザーネームというやつで、もちろん本名ではない。彼女の本当の名前を、俺は知らない。昼間は普通に「サラリーウーマン」をしてるんだよと彼女は言っていたが、どんな仕事をしているのかまでは知らないし、こんなに狭い町なのにどのあたりに住んでいるのかも知らない。親きょうだいのことや、恋人がいるのかどうかも、知らない。
きっと、よっぽどプライバシーに踏み込みすぎるようなことでも無ければ、俺の方から尋ねれば普通に答えてくれるのだろうとは思う。だけどいくら共通の話題で盛り上がれる仲間だとはいえ、まがりなりにも異性かつ年上の大人であるてんしとこれ以上距離を詰めることに対して、どこか怖気付いている部分があることも自覚していた。そんな自分の臆病を認めたくなくて「興味無い」という言葉で自分の心を誤魔化し続けているのもまた、事実だ。
そんな俺の気などつゆ知らず、てんしはいつもゲームコーナーに来た俺を見つけると「千春く~ん!おつかれ~」と、ゆるく巻いた髪を揺らしながらこちらに駆け寄り、へにゃりと笑ってみせるのだ。
***
今日も俺たちはマルオカのゲーセンの片隅で、それぞれバラバラにゲームをしたり、たまに相手のプレーを横から覗いて茶々を入れたり、「そういえばキーボニクス:ゼロの新しいあの曲やってみたよ、カッコいいけどサビの譜割りがざっくりしすぎててうんぬんかんぬん」なんてまた「専門的すぎる」話で盛り上がったりしながら過ごしていた。
「そういえばさ」
ふいにてんしがその大きな目をこちらに向ける。まつ毛が丁寧に全部しっかり上を向いていることに気付いて、化粧品のCMみたいだ、と思った。
「千春くんって今高二だよね? 進路とか……来年になったら受験生するの?」
受験生する、という言い回しはなんだか妙な感じだなと思いつつ、俺は内心どきりとしていた。俺がてんしとの距離感を測りあぐねている一方、てんしは時々こんな風にまるで何でもないことのように俺自身のことについて触れ、距離を詰めてくる。もしかしたら、本当に彼女にとっては些細でなんてことの無い話なのかもしれない。猫のようだ、と思った。
「あー……、いや、今んとこ就職の予定。出来れば東京に出たいけど、それはどうなるだろ」
「そっか~、千春くんが東京に行っちゃったらちと寂しくなるね。でも楽しいよね~東京」
就職という進路については、両親や担任にもぼんやりと伝えていたし、どちらも「だろうな」という反応だった。だけど「東京に出たい」という淡い希望は親や教師、クラスメート達はおろか、そもそも自ら口に出して言葉にしたこと自体が初めてだった。
何でだろうな。何で、てんしにはそういうことを自然に言えてしまうんだろう。
そんな俺のもんやりとした気持ちなんててんしは全然気付いていない様子で、「もうちょっと遊んでくるね」と、誰も遊んでいないキーボニクス:ゼロの方へ行ってしまった。てんしは、自由な大人だ。
***
てんしは、自由な大人だ。
平日の昼間は毎日働いて、「もう今日疲れたよ~やだ~」なんていつも文句を言ってるけど、仕事自体が心底嫌いなわけではなさそうだし、この町ではちょっと見かけないフリフリふわふわした服を着ていつも機嫌良さそうにしているし(彼女曰く「仕事終わったら着替えて来てるの。好きなことする時は可愛い格好をして全力で臨むのが礼儀なんだから」だそうだ)この狭いゲームコーナーでも本当に楽しそうに、そして毎回気が済むまで遊び倒している。たまに一階の生鮮食品売り場で缶チューハイを買って、空けながら歩いて帰っていることも知っている。「キーボニクス:ゼロ、ほんとに楽しいよね~、私も曲になれたらいいのにな」と、たまによく分からないことを言ってはにかんでみせる。音楽ゲームの曲は何回繰り返し聞いてもずっと色褪せず素敵なままだから、だそうだ。そしてよく「千春くんと違って私は宿題も試験もないからもう帰って寝るだけなんだよ~、大人っていいでしょ~」と俺をからかう。
実際羨ましかった。俺が知っている大人の中でも、てんしは誰よりとびきり自由だった。
好きなだけ遊んで、金銭的にも余裕があって、お酒を飲んで、家に帰っても宿題は無いし、定期試験もない。
俺も学校を卒業したらてんしみたいになりたいと、内心思っていた。
俺はてんしのこと、何も知らないのに。
***
「なあ、千春……俺、こないだ見ちゃったんだけどっ。マルオカのゲーセンで一緒にいた女のコ…誰っ!? もしかして……彼女……!?」
「はあ!? ち、ちげーよ……! 何勝手に見てんだよお前」
にやにやしながら「またまた~」なんてバカなことを言っているのは、腐れ縁のクラスメートの冬川だ。
元はと言えば、俺に最初に格闘ゲームやら音楽ゲームやら、アーケードゲームの遊び方を教えてきたのがこいつだった。だけど最近の冬川の興味の対象はパソコンや家庭用の据え置きゲームなど、もっぱら家で遊べるコンシューマーゲームに移ってしまったようで、ちっともゲーセンには来なくなった。俺はそんな冬川に対して内心「この裏切り者」と悪態をついていたりしたのだった。
女のコ、というのは当然てんしのことだろう。
「お前なあ……女のコって、あの人俺たちよりだいぶ歳上だぞ。それに只のゲーム仲間だし……友達なのかすら正直よく分からん」
「えーっ、あんなに仲良さそうに話してたのに…千春ってそういうドライなトコあるよな……。でも可愛かったし、実は意識してんじゃねーのかよ~このこの~」
「やめろって、ほんとアホだな冬川は……マジでそんなんじゃないって。……『てんしさん』は多分、高校生なんて相手にしねーよ。……俺だって、あの人のこと全然知らねーし」
そう。相手になんかする訳ない。
てんしは七つも歳上の社会人の大人の女の人で、俺はただの田舎のバカな高校生で。
事実を反芻しただけなのに、なんだか居心地が悪くてむしゃくしゃして、やつあたりみたいに目の前の冬川の頭を軽く小突いてやった。
***
「ね~え、千春くん。全くの新品では無いんだけどさあ、MIDIキーボードあげる、って言ったら要るぅ? ほら、パソコンで音楽の打ち込みするやつ……っていうか、パソコン用のキーボニクス:ゼロでコントローラーに出来るやつ」
MIDIキーボード。それは最近キーボニクス:ゼロ界隈でちょっとした話題になっているデバイスだ。本来の用途は、さっきてんしが言った通り、パソコンでの作曲に使うもの。
だけど最近「家庭用キーボニクス:ゼロ」として、自宅のパソコンでもキーボニクス:ゼロが遊べる公式ソフトウェアがリリースされた。パソコンに付属している文字入力用のキーボードでもちろん遊ぶことが出来るのだが、本来は鍵盤型のシュミレーションゲームであるそれを、よりアーケードに近い感覚で遊ぶための「専用コントローラー」の役割を果たすのが、MIDIキーボードというわけだ。
「え、何? くれるなら欲しいけど……余ってんの? なんで?」
欲しい、という俺の言葉を聞くと、てんしはふんわりとはにかんだ。
「そー、余ってんの。いやあのね、ずっと前に打ち込み作曲やってみたいな~……って思って買ったんだけど、結局挫折して……その時のキーボードは売ったか捨てたかしたと思ってたから、キーボニクス:ゼロ用の新しいやつ買っちゃったんだよ。そしたらこの間古いのが押し入れから出てきた」
「なるほど」
そんなことあるか? と一瞬考えたけど、てんしなら有り得るかもしれないな、と思い直した。以前てんしが同じ漫画の単行本を二冊買ってしまった話をしていたことや、同じタイトルの古いゲームソフトが何故か手元に二本あると言っていたことを思い出したからだ。
「ちょっと古いけど、私結局全然使ってないからほぼ新品みたいなものだし、今でもちゃんと使えるやつみたいだよお。千春くん、明日も来るなら持ってくるけど」
「うん、明日もバイトのシフトが入ってるから同じくらいの時間に来ると思う。では、有難く頂きます」
俺がぺこりと頭を下げると、てんしは目をキラキラと輝かせて、少し大袈裟に見えるくらいに喜んでいた。
「いやあ、良かった良かった。是非に有効活用してくれたまえ。使いづらかったら捨てちゃってもいいし、買取に出せばお小遣いくらいにはなるんじゃないかな?好きに扱ってくれていいよ。……ていうか、キーボニクス:ゼロもいいけど、千春くんも打ち込み作曲やってみてよー、DTM! 本来の使い方! たしかインストーラーにソフトが付属してるよ。千春くん、ゲームの飲み込みも早いしもしかしたらけっこう才能あるんじゃない?」
「ええ、興味無いわけじゃないけど、音楽の知識とか全然ないし、それはどうだろう……まあ気が向いたら」
打ち込み作曲。楽器の生演奏ではなく、パソコンを使って曲を作る。
興味が無いわけではない、その言葉は本当だったが、音楽を作る側になっている自分というのはいまいちピンとこなかった。
確かにキーボニクス:ゼロに限らず音楽ゲーム自体は好きだし、収録されている曲の作曲者を意識することもある。だけどそれも高校に入学してからの比較的最近の話だ。音楽の授業だって真面目に受けているとは言い難い。楽器だって弾けない。強いて言えば、たまに酔っ払った父親が古いアコースティックギターを引っ張り出して下手な歌を歌うのを聞いてああ下手だなあと思うことがあるくらいで、俺と音楽にはそれほど接点がないような気がした。
「俺が曲を作る、ねえ……」
私も、曲になれたらいいのにな。
ふいに、以前てんしが呟いていた言葉が頭の中に響いた、ような気がした。
***
作曲なんてピンと来ない、初めはそう思っていたけれど、意外とそうでも無かったようだ。
情報社会の現代に於いて、作曲だろうがなんだろうがインターネットで調べれば比較的簡単に初心者向けの講座が見つかる。しかも驚くことに、その大抵は誰でも無料で見ることが出来るのだ。
簡易的なものではあったが、てんしの言う通りDTM……つまり打ち込み作曲用のソフトもMIDIキーボードに付属していた。仕上がりは多少チープではあるものの、それこそ「音楽っぽいもの」としてデータを形にするだけなら、追加の投資をすることもなく、これまた簡単に出来た。最も、ゲーム以外の鍵盤の扱いの心得がない俺は、MIDIキーボードを使うよりマウスでひとつずつ音を入力して行く方が結局楽だった。よってMIDIキーボードは、しばらくの間俺にとっての本来の用途である家庭用キーボニクス:ゼロの専用コントローラーとして使われることになった。
客観的な出来栄えがどうであれ、自分で入力したメロディが音になって実際に流れる、何かが形になるということは、今まで感じたことの無い新鮮な感動があった。
最初は見よう見まね……「聞きよう聞きまね」とでも言うのだろうか、知っている曲のフレーズの分かる音を入力して、それを繋げていった。これだけでもまるきり素人の俺にとっては十分面白かったけど、まだ「俺が作った曲」というよりは、「既存のものをツギハギにしたパッチワーク」という感覚だった。そこで今度は、そのツギハギのパーツの形を少し変えてみたり、細かく刻んでみたりなどの変化を加えた。上手くいくこともあればしっくりこないこともあったけど、少しずつ「自分で作っている」という感じが出てくるようになった。ソフトを触っているうちに、初めは意味がわからなかった専門的な解説もだんだんと理解できるようになっていった。
それこそ、出来ることや分かることが増えていくのはゲームを攻略しているときの感覚と似ていて、シンプルに面白かった。
取り組めば取り組むほど、世界が広がっていく。
気がつけば俺は、作曲にのめり込んでいった。
***
「……と、言うわけで……ゲーセン来てない日の半分くらいは、DTMやってる……」
てんしからMIDIキーボードを譲り受け作曲の真似事をやり始めてからしばらくして、てんしに「千春くん最近ゲーセン来ないこと多くない? 飽きちゃったの?」と詰められた。いや、てんし本人には詰める気など無いのかもしれないが、俺は勝手に少し責められているような気持ちになってしまっていた。「どうしてゲーセンに来なくなったの? 私に会いたくないの?」と。或いはそれは、そう思われたい、という俺の願望かもしれない。
てんしからMIDIキーボードを譲り受けた日はまだ街道の桜もにわかに咲き始めたかという季節だったが、気が付けばすっかり夏も暮れになっていた。もちろん全くゲームセンターに来てないわけでは無かったし、てんしとは何回も会っている。だけど本当に打ち込みの作曲を始めたということは、今の今まで黙っていた。
「え~!! すごいすごいじゃん!! 今、手元に音源ないの? 聞きたい~!!」
これだ。絶対に言われると思っていた。だから黙っていた。
「いや! ほんとまだ全然ちゃんとした曲作れるわけじゃないし……! 小遣い貯めて音源ももうちょっとマシなやつ買おうと思ってんだよ、それでもっとマトモなの作れるようになったらそのうち聞かせるからさ」
そう。端的に言えば、まだ他人に聞かせるのは恥ずかしい。ましてや相手がてんしなら尚更だ。
「えーっ、千春くんがそう言うなら仕方ないけどさ~。……あ、そうだ! じゃあさ、マシなのが作れたとしても作れなかったとしても、千春くんが就職して東京に行っちゃうまでには絶対一曲聞かせてよね! すごいの作れるようになってから~なんて言ってたら、ものづくりなんて絶対完成しないんだから」
いつになく真っ直ぐな眼差しでそんなことを言われたものだから、俺としては「お、おう……」と、頷くしか無いわけで。
「絶対約束ね! やくそく」
やくそく、一音一音噛み締めるように囁いてにこりと笑う目の前のふわふわした人を見て、ドキッとした。ああ、こういう人を「可愛い」と言うのだと、生まれて初めて知ったような気がした。
何故か少しだけ、泣きたくなった。
***
それから長く尾を引いた夏が終わって秋が来て、冬が来て、また春が来て。その間も俺とてんしはつかず離れず、マルオカのゲーセンで一緒にゲームをして遊ぶ、それだけの仲。
高校三年生になり「就活生をやる」ことになった俺はバイトのシフトも少しずつ減らしていき、だけどDTMを辞めることもできず、結果ますますゲーセンに行く頻度は減った。
***
高校三年生最初の進路相談を終えた日の夜、可能なら東京で就職したいと思っていることを初めて両親に打ち明けた。てんしに同じことをこぼした時とは打って変わって、ひどく緊張して喉が乾いて仕方なかった。
両親共に、生まれも育ちもずっとこの田舎町の人間だったので「いいから地元で就職しろ」とか「何夢見たことを言ってるんだ」とか言われて、口喧嘩になることも覚悟していた。だが予想に反して両親の回答は「就職先さえ見つかれば何処に行こうと構わない。引越し費用なども多少は支援するが、足りない分は自分で稼ぐこと」というものだった。
こちらとしてはやや拍子抜けというか、「もしかしてうちの親はものすごい放任主義で、子に対する関心が薄いのではないか……?」というやや鬱屈した感情が横切ったりもしたが、それが両親なりの不器用な愛情表現だったこと、たとえ俺が進学を望んでも遠方での就職を望んでもどちらでも良いようにまとまったお金を用意してくれていて、それがどれだけ深い愛情であることか、俺はこの両親にいくら感謝してもしきれない、ということに気付くまでには、もう少し時間が必要なのだった。
就活、少しバイト、少し勉強(元々真面目に勉学に取り組むような勤勉な学生では決してなかったから、この一年はそれでも努力した方だ)、そして時間が足りないと思いつつもゲーセンに行くこともDTMの独学も、どれもやめることは出来なかった。
高校三年生のこの一年間は、未だかつて無いほどの忙しさを感じていたような、案外そうでもないような、実態の掴めない奇妙な感触の時間だった。
***
毎年毎年飽きもせず、夏というのはうんざりするほど暑い。東京に来ると、地元に比べて空間の全てが狭くて、暑さも二割増くらいに感じられる。この街で暮らすことが出来たら、二割増の暑さにもそのうち慣れるのだろうか。
今日は久々の面接だ。
闇雲に求人へエントリーしてもそもそも一次選考の書類で落とされることが多く、就活は難航していた。その上、同じ就職組の冬川が、持ち前の人懐っこさと大人ウケの良さで先に内定をサクッと勝ち取ってしまい、俺は内心ものすごく焦っていた。
小学校からの腐れ縁で、気付けばずいぶん長いこと足並みを揃えて共に歩んできた冬川。あいつが俺よりひと足先に進んでしまうことがあるなんて、これまで考えてもみなかった。
冬川は、来年から地元の食品関連会社の社員になる。
東京は暑い。そして物理的に狭い。就職先が決まったとしても、きっとここで暮らしていくのは大変だろう。
それでもやっぱり、この街に来るとあの田舎より遥かに広い世界を感じられる。たとえ物理的に狭くても、だ。
中学生の頃、初めて冬川や数名の友人と東京に遊びに来た時に感じた、あの形容し難い興奮。
あまりの人の多さに目が回った。狭い土地にぎゅうぎゅうに詰められた建造物はどれもとんでもなく巨大に見えた。街の全てがギラギラしていた。何もかもが自分たちの暮らすあの田舎町とは違う、この街が「自分の街」になったら一体どんな日々が待っているだろう? 思えばあの時の感覚は、DTMソフトを触り始めて「音楽っぽいもの」が作れるようになった頃のワクワクに似ていた。
この街で暮らしたい。
このうだるような熱に身を投じたい。そうして出来れば、社会人になってもDTMもアーケードゲームもやめたくない。てんしのような自由な大人になりたい。「大型商業施設のゲームコーナー」ではない、「ゲームセンター」の風景が見たい。
そこにてんしはいないとしても。
この街で暮らしたい。
「だから……内定ください……!」
ビルの隙間に切り取られた空は何処までも青く高く、俺の祈りを遠く遠く吸い込んでいった。
じっとりと、汗がにじんだ。
***
今日の面接会場は駅から少し離れた場所にあるCDショップだ。小さな店だがCD以外にも楽器や楽譜、関連書籍の取り扱いにも力を入れていて、音楽文化そのものを総合的にカバーしているのが特徴だ。コアなファンも多く、様々なアーティストを密かに支える名店として、俺も何度か名前を聞いたことがあった。
店の名前は「天国レコード」。正社員の新卒採用は数年ぶりの試みだと、求人記事に書かれていた。
駅前に比べるとずいぶん穏やかな街並みだ。個人経営であろう喫茶店やバーが目立つ。だけどやはり田舎の寂れた商店街とは違う、どこか上等で洒落た雰囲気が一帯に漂っていた。
「そろそろこの辺のはずだけど……あ、」
真っ先に目に飛び込んできたのは、少しレトロな字で書かれた「天国レコード」の看板。一見喫茶店のようにも見える戸建ての店舗の窓には、様々なジャンルのアーティストのグラフィカルなポスターが整然と貼り付けられていた。耳を澄ませば開け放たれた窓からうっすらと漏れ聞こえているジャズ・ロック。決して騒音になったりはしない、まるで誘うような絶妙な音量だ。
ひと目見た瞬間に、電撃が走った。運命を感じるって、きっとこういうことを言う。
俺は、ここで働くことになる。
なんの根拠もないのに、確信が身体中を駆け巡った。
(続く)