夜の名前(市村圭様)

ゲームセンターにまつわる創作短編集「Home.」収録の小説です。

ゲストとしてご寄稿いただきました市村圭(@kei_conv)様の作品「夜の名前」サンプルです。お話の導入、第一節部分を掲載させていただいています。

まだインターネットの普及していない00年代、ゲームセンターのコミュニティノートにまつわる小さな隠しごとの物語。

「あなただったんでしょう、チエ」
 一冊のノートを私の目の前に突きつけて、霧江はそう指摘した。周囲からふっと音が消えた気がしたのは、もちろん私の心が勝手に耳を塞いだからだ。二〇一〇年の暮れも迫ったクリスマスイブ、夕食どきのファミレスは相応のざわめきに満ちている。ちょうど隣のテーブルにチキンとフライドポテトの盛り合わせが運ばれてきて、高校生らしき集団が歓声を上げ、沈黙は打ち破られた。
「うん。私」
 チエと呼ばれた私はもはや逃げ場のないことを悟り、素直にうなずいて認めた。目線の先には、ノートを鷲掴みに掴んだ霧江の指に嵌った指輪のきらめきがある。人差し指。それが薬指でないことを見出して自分の心に広がった感情は安堵だろうか、それとも安堵という自身の感情に対する後ろめたさだろうか。
 十年前、霧江も私も十八歳で、そして音楽ゲームが大好きだった。色とりどりのボタンのあいだを目まぐるしく動き回る高校生の手は、指輪など付けてはいられない。ボタンに当たったらヒビを入れてしまうかもしれないし。
 五つの鍵盤を弾く霧江の指が好きだった。
 八つのパネルを備えたダンスフロアを踊り回る霧江の脚が好きだった。九つのボタンの上を踊る霧江の掌が好きだった。ギター型コントローラーが備える仮想の弦をオルタネイトピッキングで軽く弾きこなす、霧江のすらりと伸びた腕が好きだった。
 そして何よりも、チエ、と私の名前を呼ぶ霧江の声が、かつての私の支えだった。だから一冊のノートを目前につきつけられてなお、過去と共鳴して耳朶を打つ霧江の声だけを私は聴いていた。それは一枝として生きることを強いられてきた十年を一足に飛び越えて、私を過去へ引き戻すノスタルジアだった。
 もう一度、ずいっとノートを押し付けて、霧江は私を現実に引き戻した。目前に迫ったキャンパスノートからは、タバコの香りがかすかに漂う。表紙にマジックペンで記された「アリゾナ美郷店 コミュニケーションノート 音楽ゲーム 2000年3月2日~8月23日」の文字を私はようやく見出した。十年前の日付。その文字の几帳面には見覚えがあり、店員でありノート管理人であった石目のものだ。
「石目さんから借りてきたんだ。いま石目さん、アリゾナの店長なんだよ。笹坂市のほうにできた新しいアリゾナも含めて、三軒も掛け持ちしてるの。知ってた?」
 知らなかったし、このようなノートを大事に取っておくタイプだとも思わなかった。その記された日付を橋頭堡として、十年前の時空が私の心に押し寄せてくる。平然を装いたかったけれど、意志に反して自分の顔が歪んでしまうのを感じた。情けない表情を晒してしまっているだろう。十年を経てなお、私は霧江に嫌われたくなかったらしい。身勝手なことに。
 霧江は私をフォローするように、明るく言葉を紡ぐ。
「あのね、あたしは別に、チエのこと怒りたいわけじゃないの。もうとっくに過ぎたことだしね。今回は十年ぶりにチエに会えることのほうがずっと嬉しかったから、この話を出すかも悩んだんだけど、困らせちゃったらごめんね。なんであんなことをしたのかは、どうでもいいの。ただなんというか、すっきりしたかっただけ」
 霧江の指摘の通りであって、確かにそれは私の仕業だった。十年前、私は音楽ゲームと霧江が大好きな高校生で、そしてただ一度の犯人役を演じたのだ。だからこれから語られるのは、もはや解かれてしまったミステリー、真犯人による供述の手稿ということになる。
 倒叙ものの語り手としては、そろそろ自己紹介が必要だろうか。
 こんにちは、私がやりました。私の名前は木村一枝。でもこの本名はあんまり好きじゃなくて、できれば呼ばないでくれると嬉しい。あだ名はチエ、スコアネームはCHIEほか。東京でやっていた編集の仕事をやめて、生まれ故郷に戻ったばかり。
 どこから話を始めようか。発端はたぶん十年前、高校三年生に進級したばかりの、二〇〇〇年の春のこと。
 エリックが姿を現したあの夜だ。

(続く)

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